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アイテム詳細
オリエンタリズム〈下〉 (平凡社ライブラリー)
Edward W. Said(原著)
今沢 紀子(翻訳)
平凡社
グループ:Book /ランキング:13851
価格:¥ 1,631
発売日:1993-06 /通常24時間以内に発送
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価格:¥ 1,631
発売日:1993-06 /通常24時間以内に発送
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カスタマーレビュー
おすすめ度:
イギリス・フランス・アメリカ、それぞれのオリエンタリズム、そして本編発表後の余波
(2008-09-11)
下巻は、上巻でオリエンタリズムの問題領域の提示、19世紀にオリエンタリズムが制度化されていく様子が第一章・第二章として記述されたのをうけ、19世紀末から第一次世界大戦までの間に、オリエンタリズムにイギリス的・フランス的という違いが大きく現れたこと、第一次世界大戦後から第二次世界大戦までの間にオリエンタリズムの担い手がアメリカに移ったこととオリエンタリズム自体の変質を扱った第三章、本編発表の7年後に発表されたオリエンタリズムに関する再説、日本人研究者の杉田英明氏の解説、訳者解説と上下巻共通の原注・索引が収録されている。
オリエント、特に本書で論じられている西アジア・エジプト・インドで実際に植民地を統治していたイギリスでは、オリエントに対する認識が行政的・経済的・軍事的な操作手法へと変わり、その変化に応じてオリエンタリズムもより現実的になった。頻繁に用いられたのは「我々と彼ら」という区別=差別の図式と骨相学・人類学による人種類型を政治・文化の領域に拡大して適用する手口など、そんな手法でブリティッシュ・オリエンタリズムは植民地支配を正当化するどころかオリエントへの恩恵とさえ表象した。対してフランスでは当該地域にもはや植民地をほとんど持てなかったのでオリエントを自分たちの幻想・異国への象徴として観念し、オリエンタリズムもそれに応じて混乱と暴力と性的奔放さ、というイメージを流通させた。もちろんどちらのオリエンタリズムも実際のオリエントの存在を無視していたことに変わりがない。
そんななか第一次世界大戦後に国際政治のヘゲモニーを確立したアメリカは、それまでの覇権国家だったイギリス・フランスからオリエンタリズムの使用権を継承することになった。この事実だけでもオリエンタリズムという学問分野が科学というより政治技術であることが示されているが、以下、著者はアメリカでのオリエンタリズムの特質を指摘する。それは、アメリカニズムをプロパガンダする前提としてオリエンタリズムの学習制度を作り上げたことと、アメリカン・オリエンタリズムが強く性行為を含意するようになったこと(男としてのアメリカがか弱い乙女としてのオリエントを組み伏せる)の二つだ。より消費イデオロギーを広げていくアメリカニズムが同時にオリエンタリズムも使いこなすことへの強い疑義と共に、全三章の論述は幕を閉じる。
1985年に書かれた再説は、本編発表後に起こった著者本人の認識の深まりと、周辺で巻き起こった論争、彼の問題意識を受けた数多くの研究の紹介がされている。
この著作が発表されたことで、明らかになったことは数多いようだ。そんな意味でこの本は世界を変えた一冊だと思う。内容に賛成するにしても反対するにしても、この著作自体にオリエンタリズムを働かせない限り、この1冊の業績は失われないだろう。
「知識人とは何か」を二重の意味で問う本
(2007-11-05)
オリエンタリズムの再生産装置となったアカデミズムがいかに政治的に機能しているか、そして米国の大学機関とメディアが「中東生まれのオリエンタリスト」をいかに再生産しているかを告発している本著は、現在の世界情勢を鑑みると発刊当初(30年前!)よりもむしろリアリティが増してきているように思う。
この上下巻を通読すると、メディアや情報の影響を受けずに他者を知ることがどれ程難しいかを通感させられる。インターネットで膨大な情報にアクセスできるようになった現在、社会的先入観の陥穽に落ちる危険性を我々の生活はむしろ高めており、そう簡単に新たなビジョンを見つけることは誰にだって難しいだろう。
この手の人文書に対するありがちな批判が訳者あとがきにもあり、要は「オリエンタリズムに代わるビジョンがない」という批判なのだが、そんなものまでサイード1人に期待するのは酷であって、それは読者1人1人が「自分の場所」で考えなくてはならない問題だろう。サイード自身はパレスチナ国民議会議員も勤めながら積極的にベタな政治活動を行った人物であり、むしろ彼の生き方の中では、行動することで次のビジョンを模索しつつバランスを取っていたんだと思う。読んで文句だけ言ってる奴が一番卑怯なんじゃないか。(「知識人とは何か」はそういう問題意識で書いたんだろうね。)
あと、オーウェル好きの僕にとっては少し納得のいかない妙な引用があった。他にも引用の精度は当時問題になったようだ。「知識人」なのにツメが甘いというのもご愛嬌というかアメリカっぽいというか(笑)。
知的訓練にはもってこいです。
(2007-06-18)
主要な読み方としては上巻のレヴューで出尽くしていますね。この本をどのように読むかは人それぞれでしょう。読み方次第でいくらでも価値が引き出せる、宝の山のような本。時期をおいて何度も読み返す度に新たな発見がある、そんな本です。プロパガンダの海底に暮らす現代人にとって、知的訓練に適した本。
日本の役割
(2006-02-22)
「オリエンタリズム」という語には表面的意味合い―東洋学、東方趣味―とは一線を画す、潜在的観念―西洋の東洋に対する支配の様式―が込められている。本書は、私たちが漠然と使用している言説について(善い意味で)釘を打ってくれる一著である。本著書についてのレヴューは枚挙に暇がないので、私は少し違った観点から考えたいと思う。
訳者の今沢氏は「あとがき」で、日本の特異なオリエンタリズム構造を次のように指摘している。日本は西洋から観て地理的・文化的に客体=観られる側である。それにも関わらず、日本は19世紀末葉以降、欧米列強を模範とし、西洋側の視点―オリエンタリズムの主体=観る側―へと変容した。確かにその点では、本書は日本に対しても警鐘を鳴らす肝要な著作である、といって差し支えないだろう。しかし、(著者が特別視しているイスラーム世界に関して言えば)日本こそが「オリエンタリズム」を打破できる、西洋に打って変われる存在なはずなのである。日本とイスラームは地理的・歴史的にこれまで疎遠であったが、それこそがパラドックスとして、「オリエンタリズム」がこれまで表象してきたものとは違ったアプローチからイスラーム世界を概観し得る要素なのである。
そして、故サイード氏は末尾で次のように語る。「専門分野の境界線をいっそう大きく踏み越え、クロス・ディシプリナリー(学際的・横断的)な」視点を持て、と。この言辞は学者(学生)のみならず、現代に生きる一般の我々にも問うている重要な一句なはずだ。
「オリエンタリズム」という概念以上に、様々な事柄を教授してくれる。決して容易な著書ではないが、是非ともお薦めしたい。
またひとり…。
(2003-09-26)
先日(二十四日)、E.サイードが亡くなった。
享年六十七才、死因は白血病だったという。
おすすめ度:
イギリス・フランス・アメリカ、それぞれのオリエンタリズム、そして本編発表後の余波
下巻は、上巻でオリエンタリズムの問題領域の提示、19世紀にオリエンタリズムが制度化されていく様子が第一章・第二章として記述されたのをうけ、19世紀末から第一次世界大戦までの間に、オリエンタリズムにイギリス的・フランス的という違いが大きく現れたこと、第一次世界大戦後から第二次世界大戦までの間にオリエンタリズムの担い手がアメリカに移ったこととオリエンタリズム自体の変質を扱った第三章、本編発表の7年後に発表されたオリエンタリズムに関する再説、日本人研究者の杉田英明氏の解説、訳者解説と上下巻共通の原注・索引が収録されている。
オリエント、特に本書で論じられている西アジア・エジプト・インドで実際に植民地を統治していたイギリスでは、オリエントに対する認識が行政的・経済的・軍事的な操作手法へと変わり、その変化に応じてオリエンタリズムもより現実的になった。頻繁に用いられたのは「我々と彼ら」という区別=差別の図式と骨相学・人類学による人種類型を政治・文化の領域に拡大して適用する手口など、そんな手法でブリティッシュ・オリエンタリズムは植民地支配を正当化するどころかオリエントへの恩恵とさえ表象した。対してフランスでは当該地域にもはや植民地をほとんど持てなかったのでオリエントを自分たちの幻想・異国への象徴として観念し、オリエンタリズムもそれに応じて混乱と暴力と性的奔放さ、というイメージを流通させた。もちろんどちらのオリエンタリズムも実際のオリエントの存在を無視していたことに変わりがない。
そんななか第一次世界大戦後に国際政治のヘゲモニーを確立したアメリカは、それまでの覇権国家だったイギリス・フランスからオリエンタリズムの使用権を継承することになった。この事実だけでもオリエンタリズムという学問分野が科学というより政治技術であることが示されているが、以下、著者はアメリカでのオリエンタリズムの特質を指摘する。それは、アメリカニズムをプロパガンダする前提としてオリエンタリズムの学習制度を作り上げたことと、アメリカン・オリエンタリズムが強く性行為を含意するようになったこと(男としてのアメリカがか弱い乙女としてのオリエントを組み伏せる)の二つだ。より消費イデオロギーを広げていくアメリカニズムが同時にオリエンタリズムも使いこなすことへの強い疑義と共に、全三章の論述は幕を閉じる。
1985年に書かれた再説は、本編発表後に起こった著者本人の認識の深まりと、周辺で巻き起こった論争、彼の問題意識を受けた数多くの研究の紹介がされている。
この著作が発表されたことで、明らかになったことは数多いようだ。そんな意味でこの本は世界を変えた一冊だと思う。内容に賛成するにしても反対するにしても、この著作自体にオリエンタリズムを働かせない限り、この1冊の業績は失われないだろう。
「知識人とは何か」を二重の意味で問う本
オリエンタリズムの再生産装置となったアカデミズムがいかに政治的に機能しているか、そして米国の大学機関とメディアが「中東生まれのオリエンタリスト」をいかに再生産しているかを告発している本著は、現在の世界情勢を鑑みると発刊当初(30年前!)よりもむしろリアリティが増してきているように思う。
この上下巻を通読すると、メディアや情報の影響を受けずに他者を知ることがどれ程難しいかを通感させられる。インターネットで膨大な情報にアクセスできるようになった現在、社会的先入観の陥穽に落ちる危険性を我々の生活はむしろ高めており、そう簡単に新たなビジョンを見つけることは誰にだって難しいだろう。
この手の人文書に対するありがちな批判が訳者あとがきにもあり、要は「オリエンタリズムに代わるビジョンがない」という批判なのだが、そんなものまでサイード1人に期待するのは酷であって、それは読者1人1人が「自分の場所」で考えなくてはならない問題だろう。サイード自身はパレスチナ国民議会議員も勤めながら積極的にベタな政治活動を行った人物であり、むしろ彼の生き方の中では、行動することで次のビジョンを模索しつつバランスを取っていたんだと思う。読んで文句だけ言ってる奴が一番卑怯なんじゃないか。(「知識人とは何か」はそういう問題意識で書いたんだろうね。)
あと、オーウェル好きの僕にとっては少し納得のいかない妙な引用があった。他にも引用の精度は当時問題になったようだ。「知識人」なのにツメが甘いというのもご愛嬌というかアメリカっぽいというか(笑)。
知的訓練にはもってこいです。
主要な読み方としては上巻のレヴューで出尽くしていますね。この本をどのように読むかは人それぞれでしょう。読み方次第でいくらでも価値が引き出せる、宝の山のような本。時期をおいて何度も読み返す度に新たな発見がある、そんな本です。プロパガンダの海底に暮らす現代人にとって、知的訓練に適した本。
日本の役割
「オリエンタリズム」という語には表面的意味合い―東洋学、東方趣味―とは一線を画す、潜在的観念―西洋の東洋に対する支配の様式―が込められている。本書は、私たちが漠然と使用している言説について(善い意味で)釘を打ってくれる一著である。本著書についてのレヴューは枚挙に暇がないので、私は少し違った観点から考えたいと思う。
訳者の今沢氏は「あとがき」で、日本の特異なオリエンタリズム構造を次のように指摘している。日本は西洋から観て地理的・文化的に客体=観られる側である。それにも関わらず、日本は19世紀末葉以降、欧米列強を模範とし、西洋側の視点―オリエンタリズムの主体=観る側―へと変容した。確かにその点では、本書は日本に対しても警鐘を鳴らす肝要な著作である、といって差し支えないだろう。しかし、(著者が特別視しているイスラーム世界に関して言えば)日本こそが「オリエンタリズム」を打破できる、西洋に打って変われる存在なはずなのである。日本とイスラームは地理的・歴史的にこれまで疎遠であったが、それこそがパラドックスとして、「オリエンタリズム」がこれまで表象してきたものとは違ったアプローチからイスラーム世界を概観し得る要素なのである。
そして、故サイード氏は末尾で次のように語る。「専門分野の境界線をいっそう大きく踏み越え、クロス・ディシプリナリー(学際的・横断的)な」視点を持て、と。この言辞は学者(学生)のみならず、現代に生きる一般の我々にも問うている重要な一句なはずだ。
「オリエンタリズム」という概念以上に、様々な事柄を教授してくれる。決して容易な著書ではないが、是非ともお薦めしたい。
またひとり…。
先日(二十四日)、E.サイードが亡くなった。
享年六十七才、死因は白血病だったという。
本書は「オリエンタリズム」という言葉に含まれた、
多分に西洋的なものへの批判文だ。
その思想史上の偉大さは、今さら私が語るまでもあるまい。
我々からして既にこの本を西洋的な目で見ている――。
そのことに気付いた時、必ずや得るものが有るだろう。
言い方は悪くなってしまうが、これを機会に一読をお勧めする。
それにしても惜しいひとを亡くしたものだ…。

