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カスタマーレビュー
おすすめ度:
言論の危機に警鐘を鳴らす書
(2008-03-01)
いつものクセで最初に目を通した後書きは、次のように結ばれていた。
『この国の政治とマスコミを完全に我が手におさめようとする渡邊の野望がこれでついえたわけではない。時機がくれば、再び彼は邪魔者をなぎ倒し、踏みつぶしながら、修羅のように突き進んでいくにちがいない。』
この時点では「まあずいぶんと大袈裟な描写…個人的に何か恨みでもあんのかな」と疑った。しかし、頁を繰るごとに、先の引用が決して誇張ではないことが分かる。この人物は、まさに権力の階段を昇るために凄まじい意志の力を発し、果ては一国の首相すら意のままに操る地位を手に入れた、マキャベリズムの権化のような人物なのだ。例えば、筆者の周到な取材によって、ナベツネが中曽根康弘に若い頃から目をつけ、権謀術数の限りを尽くして首相に仕立て上げた過程が浮き彫りになっている。
この本が教えてくれることは、このような人物が舵をとる読売グループの言論は、もはやジャーナリズムと呼べる代物ではなく、カネと数の圧力で政治を操るためのプロパガンダに過ぎない、ということだ。同時に、中曽根政権以来、言論をジワジワと右向きに引っ張ってきた得体の知れない力の一端を知る手がかりにもなる。この国が曲がりなりにも言論の自由の保証された民主主義の国であってほしいと願う人々には、ぜひ読んでいただきたい一冊。
『評伝』としては不満もあるが、読み応えのある力作である。★は4つです。
(2006-07-28)
昔は「ツネさん」とか「ワタツネ」とも呼ばれてようだが、今は誰もが「ナベツネ」。なんだか「ジャイアン」みたいな響きがある。そんな彼は日本一の発行部数を誇る『大』新聞社の社長にして主筆であるが、彼を言論人と呼ぶ人は少ない。それは何故か、ということが本書には書いてある。というか、約400頁の本文には殆どそれしか書かれていない。
権力を握るにためには何でもやる、とにかく徹底的にやる。ジャーナリズムって一体何?という感じである。権力闘争はどこの会社でもあるが、それが政治とメディアという二つの権力を行き来してしまうのは、あきれるのを通り越して、凄いとしか言えない。と同時にこれがこの作品に対する不満にもなる。
タイトルが「渡邉恒雄 メディアと権力」である。だから、権力の追及者としての渡邊恒雄の描写に偏るのもやむを得ないのかもしれないが、人間性そのものを炙り出そうとする『評伝』としては物足りなく感じてしまう。
例えば、彼はワシントン勤務のときには家族も連れて行っているのだが、帰国して日本の学校に復学した息子の学力が、日米の公立学校の学力格差のため遅れていると知ると、勉強を教えるために教科書を3冊(息子に1冊、息子に教えるときに彼が使うために1冊、彼の予習のためにベッド脇に1冊)、参考書も同様に揃えて臨んだ、というエピソードが紹介されている。勉強をやれ、と言うだけではないのである。ただの負けず嫌いなだけかもしれないし、並外れた愛情なのかもしれないのだが、著者はそれを掘り下げることなくエピソードの紹介にとどめている。
こういった権力の追及者ではない時の渡邊の人間性が現れているようなエピソードは他にもあったのだが、いずれも同じように扱われている。力作であるだけに個人的にはそこが非常に残念である。
違う生き方のジャーナリストもいる
(2005-12-23)
渡邊恒雄は、結局、青春の理想を裏切り、権力への意思を別の形で実現したのだろう。そうではない生き方をしたジャーナリストもいる。世代はずっと若返るが、フジサンケイグループの中で、青春の志を保持しぬいて抵抗した記者の本がある。松沢弘「フジサンケイ帝国の内乱」(社会評論社)が、それだ。あのフジサンケイグループで、論説委員が「残酷物語」に抗して新労組を立ち上げ、懲戒解雇されても12年間も闘い続けている。渡邊の権力への意思とは、全く異なる「解放への志」がここにはある。
他の誰なら良かったのか
(2005-10-10)
多くの人に読まれて欲しい労作であるという前提に立って、私なりの疑問点を述べる。
もし渡邉恒雄が読売社長になれなかったとして、では誰ならよかったのか? 本書の登場人物から選べと言われたら、判断に困るのではないか? 著者は大坂読売社会部長だった黒田清をナベツネ的なものと対置しているように思えるが、黒田を戴く巨大メディアというのも想像しにくい。そもそも著者は、渡邉批判の都合から読売社会部を美化し過ぎていないか?
著者は本田靖春の「務台は販売の神様、渡邉は政界の人間で、ジャーナリストではない。だから読売でジャーナリストであろうとすると必ず上とぶつかる」という言葉を引用する(p289)。しかし私の考えでは、ジャーナリズムの「良心」とか「本道」を振りかざした批判は、不徹底なものだ。近代ジャーナリズムの歴史を振り返れば、むしろ務台・渡邉的なものこそジャーナリズムの本性であることが分かる。明治期の政論新聞は渡邉的な人間たちの巣窟だった。
私はシステムの優位を言い立てて個を免罪しようというつもりはない。しかし問題はやはり、読売が巨大だという、その事実にある。渡邉的な人間そのものは、どこにもいる。
ただし、文庫版巻末に収められた著者と玉木正之の対談で、巨人の凋落やJリーグ人気に「渡邉的なもの」の機能不全を指摘していたのは興味深かった。私はそこに、旧来型メディアの行きづまりを見る。もっとも、ネット社会もパラダイスではないわけだが…
最後にもう1点。解説で佐野眞一が渡邉を「東大でカントに傾倒し、ニーチェを熟読したエリート中のエリート」と形容している(p481)が、東京高校から東大文学部に進学するのはエリートコースとは言えまい。魚住の記述も文学部進学の経緯を掘り下げていないが、私はそこにも渡邉のコンプレックスの源があるのだろうと推測する。
面白くて一気に読めてしまうのに、その読後感はサイアク
(2005-06-06)
“ナベツネ”の存在は昨年の一連のプロ野球騒動でクローズアップされたが、そんなものは“ナベツネ”という人物像の何万分の1にも満たないってことが、この本を読むとわかる。“ナベツネ”なるものがマジで今の政治を、経済を、社会を動かしているのだ。この本がトンデモ本の類であれば上出来のエンターテインメントだし、戦国時代の武将を描いたものならかなり使える処世訓と言える。しかし、この本の舞台が現代の日本であり、内容が超リアルであり、読んでる僕にも密接に関わりのあることだとしたら、これは「暗黒の書」といえるだろう。面白くて一気に読めてしまうのに、その読後感はサイアクである。
ブンヤと言えば昔は社会派、反権力ってイメージであり、実際にこの本の中にも、そうしたブンヤも出てくる。しかし、いまやマスコミこそが権力なのだ。番記者から派閥のドンに取り入り、果ては一国の首相を選ぶまでになる。出世のために子分を作る、同僚を飛ばす、上司を嵌める。私腹や自社の利益のためにキャンペーンを張る、記事を潰す。冒頭にマキャベリの「君主論」が掲げられているが、ナベツネほど忠実に「君主論」を実践した人物は居ないだろう。とは言え、多かれ少なかれ世の権力者は“ナベツネ的”要素を持っているのである。
この本を読むと、ホリエモンがなぜマスコミを手中に収めたがったのか、ナベツネがなぜホリエモン的アプローチを毛嫌いしたのかがわかる気がする。
おすすめ度:
言論の危機に警鐘を鳴らす書
いつものクセで最初に目を通した後書きは、次のように結ばれていた。
『この国の政治とマスコミを完全に我が手におさめようとする渡邊の野望がこれでついえたわけではない。時機がくれば、再び彼は邪魔者をなぎ倒し、踏みつぶしながら、修羅のように突き進んでいくにちがいない。』
この時点では「まあずいぶんと大袈裟な描写…個人的に何か恨みでもあんのかな」と疑った。しかし、頁を繰るごとに、先の引用が決して誇張ではないことが分かる。この人物は、まさに権力の階段を昇るために凄まじい意志の力を発し、果ては一国の首相すら意のままに操る地位を手に入れた、マキャベリズムの権化のような人物なのだ。例えば、筆者の周到な取材によって、ナベツネが中曽根康弘に若い頃から目をつけ、権謀術数の限りを尽くして首相に仕立て上げた過程が浮き彫りになっている。
この本が教えてくれることは、このような人物が舵をとる読売グループの言論は、もはやジャーナリズムと呼べる代物ではなく、カネと数の圧力で政治を操るためのプロパガンダに過ぎない、ということだ。同時に、中曽根政権以来、言論をジワジワと右向きに引っ張ってきた得体の知れない力の一端を知る手がかりにもなる。この国が曲がりなりにも言論の自由の保証された民主主義の国であってほしいと願う人々には、ぜひ読んでいただきたい一冊。
『評伝』としては不満もあるが、読み応えのある力作である。★は4つです。
昔は「ツネさん」とか「ワタツネ」とも呼ばれてようだが、今は誰もが「ナベツネ」。なんだか「ジャイアン」みたいな響きがある。そんな彼は日本一の発行部数を誇る『大』新聞社の社長にして主筆であるが、彼を言論人と呼ぶ人は少ない。それは何故か、ということが本書には書いてある。というか、約400頁の本文には殆どそれしか書かれていない。
権力を握るにためには何でもやる、とにかく徹底的にやる。ジャーナリズムって一体何?という感じである。権力闘争はどこの会社でもあるが、それが政治とメディアという二つの権力を行き来してしまうのは、あきれるのを通り越して、凄いとしか言えない。と同時にこれがこの作品に対する不満にもなる。
タイトルが「渡邉恒雄 メディアと権力」である。だから、権力の追及者としての渡邊恒雄の描写に偏るのもやむを得ないのかもしれないが、人間性そのものを炙り出そうとする『評伝』としては物足りなく感じてしまう。
例えば、彼はワシントン勤務のときには家族も連れて行っているのだが、帰国して日本の学校に復学した息子の学力が、日米の公立学校の学力格差のため遅れていると知ると、勉強を教えるために教科書を3冊(息子に1冊、息子に教えるときに彼が使うために1冊、彼の予習のためにベッド脇に1冊)、参考書も同様に揃えて臨んだ、というエピソードが紹介されている。勉強をやれ、と言うだけではないのである。ただの負けず嫌いなだけかもしれないし、並外れた愛情なのかもしれないのだが、著者はそれを掘り下げることなくエピソードの紹介にとどめている。
こういった権力の追及者ではない時の渡邊の人間性が現れているようなエピソードは他にもあったのだが、いずれも同じように扱われている。力作であるだけに個人的にはそこが非常に残念である。
違う生き方のジャーナリストもいる
渡邊恒雄は、結局、青春の理想を裏切り、権力への意思を別の形で実現したのだろう。そうではない生き方をしたジャーナリストもいる。世代はずっと若返るが、フジサンケイグループの中で、青春の志を保持しぬいて抵抗した記者の本がある。松沢弘「フジサンケイ帝国の内乱」(社会評論社)が、それだ。あのフジサンケイグループで、論説委員が「残酷物語」に抗して新労組を立ち上げ、懲戒解雇されても12年間も闘い続けている。渡邊の権力への意思とは、全く異なる「解放への志」がここにはある。
他の誰なら良かったのか
多くの人に読まれて欲しい労作であるという前提に立って、私なりの疑問点を述べる。
もし渡邉恒雄が読売社長になれなかったとして、では誰ならよかったのか? 本書の登場人物から選べと言われたら、判断に困るのではないか? 著者は大坂読売社会部長だった黒田清をナベツネ的なものと対置しているように思えるが、黒田を戴く巨大メディアというのも想像しにくい。そもそも著者は、渡邉批判の都合から読売社会部を美化し過ぎていないか?
著者は本田靖春の「務台は販売の神様、渡邉は政界の人間で、ジャーナリストではない。だから読売でジャーナリストであろうとすると必ず上とぶつかる」という言葉を引用する(p289)。しかし私の考えでは、ジャーナリズムの「良心」とか「本道」を振りかざした批判は、不徹底なものだ。近代ジャーナリズムの歴史を振り返れば、むしろ務台・渡邉的なものこそジャーナリズムの本性であることが分かる。明治期の政論新聞は渡邉的な人間たちの巣窟だった。
私はシステムの優位を言い立てて個を免罪しようというつもりはない。しかし問題はやはり、読売が巨大だという、その事実にある。渡邉的な人間そのものは、どこにもいる。
ただし、文庫版巻末に収められた著者と玉木正之の対談で、巨人の凋落やJリーグ人気に「渡邉的なもの」の機能不全を指摘していたのは興味深かった。私はそこに、旧来型メディアの行きづまりを見る。もっとも、ネット社会もパラダイスではないわけだが…
最後にもう1点。解説で佐野眞一が渡邉を「東大でカントに傾倒し、ニーチェを熟読したエリート中のエリート」と形容している(p481)が、東京高校から東大文学部に進学するのはエリートコースとは言えまい。魚住の記述も文学部進学の経緯を掘り下げていないが、私はそこにも渡邉のコンプレックスの源があるのだろうと推測する。
面白くて一気に読めてしまうのに、その読後感はサイアク
“ナベツネ”の存在は昨年の一連のプロ野球騒動でクローズアップされたが、そんなものは“ナベツネ”という人物像の何万分の1にも満たないってことが、この本を読むとわかる。“ナベツネ”なるものがマジで今の政治を、経済を、社会を動かしているのだ。この本がトンデモ本の類であれば上出来のエンターテインメントだし、戦国時代の武将を描いたものならかなり使える処世訓と言える。しかし、この本の舞台が現代の日本であり、内容が超リアルであり、読んでる僕にも密接に関わりのあることだとしたら、これは「暗黒の書」といえるだろう。面白くて一気に読めてしまうのに、その読後感はサイアクである。
ブンヤと言えば昔は社会派、反権力ってイメージであり、実際にこの本の中にも、そうしたブンヤも出てくる。しかし、いまやマスコミこそが権力なのだ。番記者から派閥のドンに取り入り、果ては一国の首相を選ぶまでになる。出世のために子分を作る、同僚を飛ばす、上司を嵌める。私腹や自社の利益のためにキャンペーンを張る、記事を潰す。冒頭にマキャベリの「君主論」が掲げられているが、ナベツネほど忠実に「君主論」を実践した人物は居ないだろう。とは言え、多かれ少なかれ世の権力者は“ナベツネ的”要素を持っているのである。
この本を読むと、ホリエモンがなぜマスコミを手中に収めたがったのか、ナベツネがなぜホリエモン的アプローチを毛嫌いしたのかがわかる気がする。

