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カスタマーレビュー
おすすめ度:
「学者の仕事」の真骨頂
(2008-08-15)
織田信長が戦場に臨んでどのように行動したか、資料と実地踏査を元に考察した本である。
ある対象に対しては、多くの人がそれぞれ異なることを言う。
玉石が混在する中で、
誰の言っていることが正しいのか。
なぜ、正しいのか。
その情報から何が読み取れるのか。
その情報の主役は、何を企図して何をどのように使ったのか。
明確な基準を示し、背景に隠された「より面白い」事実を解き明かす。こうした、学者として「あらまほしけれ」な仕事の成果が一冊の本にコンパクトにまとめられている。
本著ではに基づき、織田信長がどういう人物であったのかが解明されてゆく。学者が学問を正しく用いることの威力をこれでもかと見せ付ける好著である。
信長好きには必読の良書です。
(2008-01-12)
藤本正行氏の近著「信長は謀略で殺されたのか」を読んで、同氏の古文書に対する姿勢などに感心された方には必読書だと思われます。
「信長は謀略で〜」が諸説を吟味するのに対し、本書はタイトル通り信長による主な合戦を「信長公記」から丁寧に分析しています。
特に、「軍事」の視点から分析を行っているのは本当に目から鱗です。確かに、歴史における当時の戦争は「合戦」と呼ばれてしまっていて、例えば大学においても歴史学は文学部の一部にあるように、ある種の「物語」や「伝説」として取り扱われているように感じます。しかしながら、特に戦国期はその名の通り内戦状態での殺戮が繰り返されていた訳で、軍事学の観点から実際の可能性を検討する必要性があるのは至極当然ということがよく分ります。
実際、信長を一言で「天才」とか「大殺戮者」とかと呼び、そのイメージで楽しいのはやはり「物語」として楽しむ場合でしょう。ただ、当時を真剣に戦争を遂行しなければならない軍事戦略として考えれば、筆者の解釈は極めて納得がいくもので「なるほど」と唸りました。
例えば、主な戦争の前には必ず調略などで敵方からの寝返りをきっかけにして自軍の安全侵攻を確保しているとか、圧倒的な兵力動員による圧倒勝利の確保を優先するとか(桶狭間山戦を除く)、逆に無理攻めした際は自軍の損傷も大きかったようだ、など。信長は、旧来型武将と比べて、極めて近代的な戦争を展開していたのだということが垣間見られて興味深いものがあります。
史実と虚実の間で
(2006-07-19)
信長の合戦の虚構性については以前から聞いているのでそう珍しいこととも思えないのだが、この本の良いところは、現在言い伝えられている逸話が当時の戦争の常識からいかにかけ離れたものであるか、ということを解明している点と、日本の近現代の戦争史との関連性を説いている点である。特に「甫庵信長記」のような物語が軍事戦略上の教材として扱われていたという事実には驚愕したし、こんないい加減な知識のために多くの命が失われたと思うと憤りすら感じた。
ただ、「信長公記」という第一級の史料がありながら物語が史実としてがもてはやされたというのは、長く戦争状態のなかった江戸時代の影響もあったのではないだろうか。史実の錯誤の原因を「甫庵信長記」のみに求めるのは少々無理があると思う。
とはいえ、もし日本がいま戦争をするとしたら、同じ失敗を犯しそうで怖い。戦争を知らない人びとが戦争を語り、構想することの危なさを、この本は暗に指摘してくれているような気がする。
初心者でも十分楽しめる、歴史の真実に迫る本
(2004-10-04)
「信長公記」には、ほぼ完全な自筆本が2本残されているが、自筆本同士でありながら、異同が多いのだそうだ。筆者は、この2本の自筆本について、信長と家康に対する敬称の有無を巻ごとに分析し、一方を決定稿と見る通説に疑問を投げ掛けるとともに、記事ごとの敬称や干支の有無から、カードシステムによる編纂方法を取っていることも明らかにし、カードの並べ違いや重複の例まで示してみせる。「なるほど、古文書の解析とは、こうやってやるものなのか」と、大変、面白く読むことができた。
勝頼が信長を道連れに........
(2004-09-01)
「信長公記」伝本の徹底した研究調査により「信長公記解題」の様相を呈する序章をベースに桶狭間の合戦から長篠の合戦までを従来の定説を排除し良質な資料に基づく新解釈を世に示した好著の復刊。
然しそこで敢えていうならば、「信長公記」が桶狭間の合戦年を「天文21年」(1552年)と「記述を誤っている」ことに対して、単に「永禄3年(1560年)の誤り。後世の加筆であろう。」と簡単に処理している点がひとつ。つまり、著者自身が言うところのドキュメンタリー作家たる太田牛一が、桶狭間の合戦の年を間違えるのは極めて不自然な考えられない誤記である。寧ろそこに何らかの意図・事情が介在していたと見るべきでは。今ひとつは、今川方と織田方の兵力の格差である。近世大名配置等によれば駿河・三河・遠江の三国合わせて石高約80万石、豊かな濃尾平野と貿易港を有する尾張は約65万石である。当時の兵農未分離の状況の中で輸送部隊を含めた動員力は一万石あたり、300人程度とされるので、今川方24,000人織田方19,500人となる。しかし武田・北条と三国同盟中であるとはいえ今川方も後方の備えのため6割が遠征したとして14400人、同様に織田方11700人となる。当然敵国美濃と接する織田方が後方の備えがより多く必要であることは否めない。しかし、今川方は駿河からの遠征軍のため輸送隊の割合が高くなるはずであり、その分実戦部隊の割合は低下することとなる。その一方で織田方はほぼ自領での戦闘なので多くの荷駄を必要とはしないはずである。したがって、大目に見ても今川方約15000人対織田方10000人程度の格差と想定される。加えて今川方は鳴海、大高方面に先遣隊が分散し、桶狭間が奇襲戦ではないとする場合にはこうした視点も加味されるべきと思われる。
以上の点はさておいて一方的に敗れた武田勝頼が結果的に信長の領国支配体制を大きく変更させ、滝川一益ら宿老の前線への配置転換、畿内地域の信長の軍事力の空洞化を招き光秀の謀反成立の前提条件を形成したという見方は興味深いものがある。
おすすめ度:
「学者の仕事」の真骨頂
織田信長が戦場に臨んでどのように行動したか、資料と実地踏査を元に考察した本である。
ある対象に対しては、多くの人がそれぞれ異なることを言う。
玉石が混在する中で、
誰の言っていることが正しいのか。
なぜ、正しいのか。
その情報から何が読み取れるのか。
その情報の主役は、何を企図して何をどのように使ったのか。
明確な基準を示し、背景に隠された「より面白い」事実を解き明かす。こうした、学者として「あらまほしけれ」な仕事の成果が一冊の本にコンパクトにまとめられている。
本著ではに基づき、織田信長がどういう人物であったのかが解明されてゆく。学者が学問を正しく用いることの威力をこれでもかと見せ付ける好著である。
信長好きには必読の良書です。
藤本正行氏の近著「信長は謀略で殺されたのか」を読んで、同氏の古文書に対する姿勢などに感心された方には必読書だと思われます。
「信長は謀略で〜」が諸説を吟味するのに対し、本書はタイトル通り信長による主な合戦を「信長公記」から丁寧に分析しています。
特に、「軍事」の視点から分析を行っているのは本当に目から鱗です。確かに、歴史における当時の戦争は「合戦」と呼ばれてしまっていて、例えば大学においても歴史学は文学部の一部にあるように、ある種の「物語」や「伝説」として取り扱われているように感じます。しかしながら、特に戦国期はその名の通り内戦状態での殺戮が繰り返されていた訳で、軍事学の観点から実際の可能性を検討する必要性があるのは至極当然ということがよく分ります。
実際、信長を一言で「天才」とか「大殺戮者」とかと呼び、そのイメージで楽しいのはやはり「物語」として楽しむ場合でしょう。ただ、当時を真剣に戦争を遂行しなければならない軍事戦略として考えれば、筆者の解釈は極めて納得がいくもので「なるほど」と唸りました。
例えば、主な戦争の前には必ず調略などで敵方からの寝返りをきっかけにして自軍の安全侵攻を確保しているとか、圧倒的な兵力動員による圧倒勝利の確保を優先するとか(桶狭間山戦を除く)、逆に無理攻めした際は自軍の損傷も大きかったようだ、など。信長は、旧来型武将と比べて、極めて近代的な戦争を展開していたのだということが垣間見られて興味深いものがあります。
史実と虚実の間で
信長の合戦の虚構性については以前から聞いているのでそう珍しいこととも思えないのだが、この本の良いところは、現在言い伝えられている逸話が当時の戦争の常識からいかにかけ離れたものであるか、ということを解明している点と、日本の近現代の戦争史との関連性を説いている点である。特に「甫庵信長記」のような物語が軍事戦略上の教材として扱われていたという事実には驚愕したし、こんないい加減な知識のために多くの命が失われたと思うと憤りすら感じた。
ただ、「信長公記」という第一級の史料がありながら物語が史実としてがもてはやされたというのは、長く戦争状態のなかった江戸時代の影響もあったのではないだろうか。史実の錯誤の原因を「甫庵信長記」のみに求めるのは少々無理があると思う。
とはいえ、もし日本がいま戦争をするとしたら、同じ失敗を犯しそうで怖い。戦争を知らない人びとが戦争を語り、構想することの危なさを、この本は暗に指摘してくれているような気がする。
初心者でも十分楽しめる、歴史の真実に迫る本
「信長公記」には、ほぼ完全な自筆本が2本残されているが、自筆本同士でありながら、異同が多いのだそうだ。筆者は、この2本の自筆本について、信長と家康に対する敬称の有無を巻ごとに分析し、一方を決定稿と見る通説に疑問を投げ掛けるとともに、記事ごとの敬称や干支の有無から、カードシステムによる編纂方法を取っていることも明らかにし、カードの並べ違いや重複の例まで示してみせる。「なるほど、古文書の解析とは、こうやってやるものなのか」と、大変、面白く読むことができた。
さて、筆者は、その「信長公記」をおおむね信頼できる史料価値のあるもの、後世の「甫庵信長記」を伝記小説的な史料価値のないものという基本的なスタンスに立ち、「甫庵信長記」などに基づいた桶狭間の奇襲戦などの現代に伝わる通説を、「信長公記」の記述を詳細に分析したり、誤った史実の成り立ちの経過を明らかにして否定してみせ、「なるほど」と納得させてくれる。
ただ、この本を読んで、疑問に思うことが一つある。「信長公記」は、別に近年になって発見された本でもなく、我々一般大衆はともかく、研究者にとっては、その存在と、その中に書かれている内容については、以前から周知の事実のはずであり、そこから、昭和57年になって、ようやく通説を覆すような新説が出たということを、どう捉えればよいのだろうか。
実際、筆者のあとがきによると、昭和57年に筆者の新説が発表される前は、研究者の間でも桶狭間の奇襲戦などは通説となっており、現在でも、まだ通説を支持する研究者は、少なくないのだそうだ。こうなると、私などには、通説と新説の違いは、「信長公記」と、「甫庵信長記」などの後世に書かれた古文書を、それぞれどう評価するかのスタンスの違いに過ぎないのかとも思えてしまう。一度、通説を支持する立場の研究者の理論にも触れてみたいものである。
勝頼が信長を道連れに........
「信長公記」伝本の徹底した研究調査により「信長公記解題」の様相を呈する序章をベースに桶狭間の合戦から長篠の合戦までを従来の定説を排除し良質な資料に基づく新解釈を世に示した好著の復刊。
然しそこで敢えていうならば、「信長公記」が桶狭間の合戦年を「天文21年」(1552年)と「記述を誤っている」ことに対して、単に「永禄3年(1560年)の誤り。後世の加筆であろう。」と簡単に処理している点がひとつ。つまり、著者自身が言うところのドキュメンタリー作家たる太田牛一が、桶狭間の合戦の年を間違えるのは極めて不自然な考えられない誤記である。寧ろそこに何らかの意図・事情が介在していたと見るべきでは。今ひとつは、今川方と織田方の兵力の格差である。近世大名配置等によれば駿河・三河・遠江の三国合わせて石高約80万石、豊かな濃尾平野と貿易港を有する尾張は約65万石である。当時の兵農未分離の状況の中で輸送部隊を含めた動員力は一万石あたり、300人程度とされるので、今川方24,000人織田方19,500人となる。しかし武田・北条と三国同盟中であるとはいえ今川方も後方の備えのため6割が遠征したとして14400人、同様に織田方11700人となる。当然敵国美濃と接する織田方が後方の備えがより多く必要であることは否めない。しかし、今川方は駿河からの遠征軍のため輸送隊の割合が高くなるはずであり、その分実戦部隊の割合は低下することとなる。その一方で織田方はほぼ自領での戦闘なので多くの荷駄を必要とはしないはずである。したがって、大目に見ても今川方約15000人対織田方10000人程度の格差と想定される。加えて今川方は鳴海、大高方面に先遣隊が分散し、桶狭間が奇襲戦ではないとする場合にはこうした視点も加味されるべきと思われる。
以上の点はさておいて一方的に敗れた武田勝頼が結果的に信長の領国支配体制を大きく変更させ、滝川一益ら宿老の前線への配置転換、畿内地域の信長の軍事力の空洞化を招き光秀の謀反成立の前提条件を形成したという見方は興味深いものがある。

